ガリレオはメニエル病だった?...^^;...ははっ...^2

続きです...^^
彼ガリレイが唱えたのが地動説!!...コペルニクス的転回ってのはなんだったっけしら...^^;...

画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/イマヌエル・カント より
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http://ja.wikipedia.org/wiki/コペルニクス的転回 より
「元々は哲学者のイマヌエル・カントが自らの哲学を評した言葉であった。
コペルニクスとは、それまでの常識であった地球中心説に対して太陽中心説を唱えた天文学者である。
認識論において、人間の認識は外部にある対象を受け入れるものだという従来の哲学の常識に対し、カントは人間は物自体を認識することはできず、人間の認識が現象を構成するのだと説いた。人間の認識自体を問う近代的な認識論が成立した。
これから派生して、物事の見方が180度変わってしまうような場合にも使われる(パラダイム転換と同じような意味)。現在ではカントの哲学の事ではなく、この派生した使い方で主に用いられる。
なお、実際にはコペルニクスに先行して太陽中心説を提唱した学者は大勢おり、コペルニクスの独創ではない。またコペルニクスも天体は円運動をするという固定観念に縛られており、これを修正し実際には楕円運動をしている事を発見したのはヨハネス・ケプラーであった。」

画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/コペルニクス より
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「ニコラウス・コペルニクスラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。
コペルニクスはまた、教会では律修司祭カノン)であり、知事長官法学者占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。

『天体の回転について』とローマ教皇庁 

1616年ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。」

画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/ガリレオ・ガリレイ より
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「ガリレオ・ガリレイGalileo Galileiユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)はイタリア物理学者天文学者哲学者である。
パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、フランシス・ベーコンとともに科学的手法の開拓者としても知られる。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレリラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。・・・

物理学 

ピサの大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。
ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しない (...ってことは...光も重力で落下する時間は同じってことなのね?...) ということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである。この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている。 この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Viviani) の創作で、実際には行われていない、とする研究者も多い。このエピソードに先立って既に「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられる事になる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている。

科学革命 

ガリレオは、ニコラウス・コペルニクスヨハネス・ケプラーアイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベーウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。・・・
ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた。
これを用いて1609年月に望遠鏡を向けてみたガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこをと考えた)があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった。
また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星とあわせ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。・・この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。・・・
金星の観測では、金星が満ち欠けする上に、大きさを変えることも発見した。当時信じられていた天動説に従うならば、金星はある程度満ち欠けをすることはあっても、三日月のように細くはならず、また、地球からの距離は一定のため、大きさは決して変化しないはずであった。
さらに、望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初の西洋人となった。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽黒点を観測していた可能性もある。形や位置を変える黒点は、天は不変で、月より遠い場所では永遠に変化は訪れないとする天動説には不利な証拠になった。これは、アリストテレス派の研究者と激しい議論となった。なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡で太陽を直接見たためだと考えられている。
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中で既に地動説を信じていると記しているが、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。
その他には、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した。」

*「それでも地球は動く」と呟いたのはガリレオガリレイだったけど...「地動説」そのものを唱えた人物がコペルニクスでしたのね🌸
耳石はあくまでも重力センサー=加速度センサーであって...鳥のような磁気センサーじゃないようでした...ガリレオさんがメニエルでにかかったときの体感から気づいたのかどうか...^^;...はけっきょく薮の中...Orz...
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