「葬られた王朝」梅原猛.../雲太、和二、京三(うんた・わに・きょうさん)...


知的情熱、自説も覆す 梅原猛さん

新著「葬られた王朝」

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    「まだまだ新説を世に問うつもり」と意気盛んな梅原猛さん(京都市で)=奥村宗洋撮影


発表した学説を自ら批判することほど、研究者にとって難しいものはない。それを文化勲章受章者である哲学者の梅原猛さん(85)が、新著『葬られた王朝』(新潮社)でやってのけた。自らの古代学の集大成と位置づける書は、古代出雲王国の実在を、現地調査から得た知見を盛り込みながら、大胆に、スリリングに説いている。(西田朋子)

古代史3部作完結

法隆寺を聖徳太子一族の怨霊(おんりょう)鎮魂の寺と論じた『隠された十字架』(1972年)、万葉歌人・柿本人麻呂の刑死説を唱えた『水底の歌』(73年)に続く古代史3部作の完結編。「過去50年間に及ぶ諸学問の経験を総合して、思想上の冒険ができたのは大変幸せ」と語る。
この中で梅原さんが自説を方向転換したのは、ヤマタノオロチ退治などの出雲神話。70年に発表した「神々の流竄(るざん)」では、出雲で成立した神話ではなく、「大和の先住民の伝承が、8世紀の律令国家形成期に、ある政治的意図をもって出雲に置き換えられ、古事記・日本書紀に収録された」と論じている。
しかし、84年に島根県・荒神谷遺跡で銅剣358本が、96年には加茂岩倉遺跡で銅鐸(どうたく)39個などが出土。出雲周辺に一大文化圏が存在したことを示す遺物が次々と見つかった。
梅原さんは2年前、出雲を訪れたのを機に「自説が間違いなら、生きているうちに正さんといかん」と意を決し、現地を再訪。遺跡や出土品の調査だけでなく、古い神社をくまなく歩いた。「神事や奇祭は文献上、隠された事実を冷凍保存していることが多い」からだ。その結果、「アマテラスを開祖とするヤマト王朝以前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が数百年にわたり日本を支配していた」と、記紀神話を読み解いた。
韓国(からくに)から渡来したスサノオは、圧政で人々を苦しめる豪族=ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築く。6代目の大王オオクニヌシの時代には因幡(現・鳥取県東部)や越(北陸~新潟県)、南進して近畿まで支配するがやがて衰亡。南九州から東征してきた天孫族に「国譲り」を迫られ、稲佐の海に隠れた――。
「弥生時代、日本列島の文化的中心は日本海沿岸にあった」などとする梅原さんの推論は、終章でさらに熱を帯びる。「日本に律令制を導入した藤原不比等こそが記紀編纂の実務者であり、藤原氏が権力の中枢を占め続ける布石として建国神話を改竄した。そして闇に葬った前政権の神々を鎮魂するため、出雲大社に巨大本殿を建造した」
戦前は皇国史観に支配され、戦後はその反動から長らく記紀神話の歴史的解釈はタブー視されてきた。「うぬぼれず自棄に陥らず、このようなかたちで国をつくった日本の姿を、冷静に見つめなければならない」
年齢と共に、「学説は過激さを増している」。自説も含め通説を覆し続ける知的好奇心、精神の柔軟さの源とは? そう尋ねると、しばし沈黙して「青年だった僕らを『死ね』と戦場に駆り立てた祖国への怒りと、それでも消えない愛情。相反する強い気持ちが、私をさらなる日本研究に駆り立てる」と答えた。
90歳までに近年最大のテーマである世阿弥論と親鸞論を完成させ、「最終解答として、西洋近代思想批判と自然回帰の思想を書く。それから人麻呂論、アイヌ言語論……。120歳まで生きないとなぁ」。知的活火山は健在である。(2010年5月10日  読売新聞) 」

*「隠された十字架」も「水底の歌」も買ったのに...未読のまま...^^;
   でもこういうの好き♪

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       http://blogs.yahoo.co.jp/remon_17986/29426346.html より Orz~
出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。
縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。

由緒
日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称した。・・・
昔から神社の大きさをおぼえ歌で数える風習が有り、「大屋を誦して謂う。雲太、和二、京三(うんた・わに・きょうさん)」で、一番の雲太とは出雲大社。2番目の和は奈良の大仏・・・奈良を昔は大和の国と言っていましたので、大和の和。三番目の京は京都の平安神宮の大極殿のことです。・・・」

「・・・「止むを得まい。この葦原中津国は高天原に差し出そう。ただ、わしの隠れ住むところは注文どおりに致せ。汝、高天原に戻って天津神にこう告げよ。天津神の御子が世世神の火を絶やさず、継ぎ伝えるところの、煙立ち上る富み足りた厨そのままに、太柱深く地底の岩根踏まえ、ヒギ高く高天原に届かんばかりの宮を造り、わしを祭れ。・・・そうすれば我が子たち百八十神、事代主に従って使え、叛く事はあるまい」。
これが出雲王国の王・大国主命の最後の言葉だ。しかし敗軍の将でありながらかなり強気の要求である。米軍に無条件降伏した日本とはかなりの違いだ。これも建御名方神が善戦し、条件付で降伏したことによると想像している。
そしてこの天に届くような宮と思われる遺跡が、2000年3月に現出雲大社の境内から発掘された。それは1M余の柱3本の組柱の木柱痕であった。これはある程度予想はされていた事ではあったが皆ドキモを抜かれた。その予想とは大社に残る古文書の中に古代大社の構造図があり、その図が正に発掘された木柱痕と同じであったのだ。構造図によれば3本の木柱を鉄の輪で束ね一本とし(3M位になる)、それを9本立てて高層神殿を立てたと記されていたのだ。その高さは16丈(48M)であったと言う。
平安時代当時の建築物のビッグ3をこう記していた。「雲太、和二、京三」と。
これは出雲大社が一番、次が奈良の大仏殿、三番目が平安京大極殿と言う意味だ。今の奈良の大仏殿は当時と同じで45Mと言われている。大社に伝わる16丈とは48Mになるので、その言い伝えが正しいと推定された。そしてその推定を更に裏付けたのが大手ゼネコン大林組がチャレンジした、古代出雲大社復元プロジェクトとであった。
大社に伝わる構造図を基に構造計算をし、木柱3本束ねれば48Mの大社の建設は可能であると結論したのだ。
古事記の内容が史跡と繋がる例は少ない中で、この大国主命の要求した宮と、コンピューターによって再現された出雲大社が重なった意味は大きい。・・・」

*そうか...むかし NHKの番組で見た記憶あるんだけど...すでに10年前の話になるんだなぁ...^^;...
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