「狂狷(きょうけん)の徒(と)」

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http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000379.shtml より Orz~
「「孔子様はこう言っとる。 「人間というものは中庸を得たものが一番よろしい」と。 まあいわゆる聖人ですわな。 しかし、「現実にはそんな中庸の人間がおるものではない」と。 それでは中庸の人の次にどういう人がいいかというと、 孔子は「狂狷の徒がよろしい」と言うておる。 「狂狷は進みて取る」、 進取の気性です。 世間を変えるには「狂」がなければならない。 そして「狷者は為さざるところあるなり」と。 たとえ一億円の金を積まれても、 わしは嫌じゃということは断じてせんという、 それが「狷」です。」(「学び続ける 「狂狷(きょうけん)の徒」たれ」より)
・・・「世の中を変えたければ自分を変えろ」というのは自己啓発の決まり文句だが, 自分を変えるとはすなわち「狂狷の徒たれ」ということだ。 それがどれだけ覚悟のいることなのか,・・・」

http://wiredvision.jp/blog/shirata2/200804/200804161100.html より Orz~
白田秀彰の「現実デバッグ」・・・
「私は、その受験競争の渦中にあって、あまりその「意味」を気にしない知的鈍感さのおかげで、なんの葛藤もなくそれを乗り越えることができた。しかし、私よりも優れた感性と本質への洞察力を持っていた人物であれば、その無意味さに耐えられず、受験競争から脱落したのではないかと思う。それゆえ、私は戦後の文科省の政策に憤っているのだ。
教育基本法では、教育の目標を「人格の完成」と置く。つづいて「平和で民主的な国家及び社会の形成者としての必要な資質」をもつ「心身ともに健康な国民の育成」としている。教育の目標は「人格の完成」であっていいと思う。しかし、国家が義務教育として与えるものは、そうした高度な目標である必要はない。そもそも国家が「人格」の善し悪しやその完成・未完成を判断すること自体が、個人の精神的自由の侵害ではないか。国家は、「平和で民主的な国家および社会の形成者としての必要な資質」を教育する以上のことをしてはならない、と私は考える。教育によって人格を形成しようとするから、子供達が心を病み、教育が全員に無意味で高度なクイズを強いるから、子供達の成長を捻じ曲げ健康を害するのだ。
で、もっとも重要な「平和で民主的な国家及び社会の形成者としての必要な資質」の教育は、今どこで行われているのだろうか? 「祖国愛」「自己犠牲」「法律の尊重」「公共の利益の優先」「平等主義」はどの段階で教えられているのだろうか? 小学校か? 中学校か? 私は知らない。私の経験からすれば、「道徳」の時間の「お題目」以上の水準で、そういったものは一切教えられなかった。上記の価値が、我々の共同体を維持するために必須であることを実感として理解したのは、私についていえば、恥ずかしながら大学院に入ってからだ。
残念ながら、上記の共和国のための徳は、共和国において必須でありながら、それらの徳を理性的に理解することに、かなりの知的蓄積を必要とする。だからこそ、初等教育では理屈抜きに子供達に「設定」していくしかない。場合によっては「方便(ウソ)」を使いながら。これは共和国のための「美しいフィクション」だ。そうした洗脳的教育を大方の教育関係者は批判するだろうが、そうしなければ、我々の社会が拠って立っている基盤が破壊されるのだ、と言ってもダメなんだろうか。正義と真実の尊重を掲げたまま、我々の共和国が正義と真実に到達し得ないまま沈んでいく姿を、我々は見守るべきなのだろうか。・・・
「真実」とされていることを相対化して、自らの知識や経験や信条と総合的に判断して、自分自身として、どの「解釈」を取るのか、という視点が絶対に必要になる。これで、容易に誰かから騙されない人ができあがる。大学進学への準備としての高等学校の普通科では、むしろ中学までの教育の問い直しとか疑いを、哲学的に探求するような内容のほうがいいと私は思う。「生命とはどのような現象か」「なぜ1+1が2になるのか」「なぜ法律は私達を拘束するのか」というような問いだ。中学までに、理屈抜き論証抜きで教えられてきたことを、一度全部疑う教育を中心とする。
そして、そうした懐疑を乗り越えてさらに勉強したいと思うような、奇特な学生が大学へ進学してくる。そして、それぞれの専門領域に向けて、これまでの高等学校で行われていたような発展的教育をすすめ、学問的真実の探求にすすむというわけだ。私が思うに、現在の高校で行われる各種教育は、日常生活には不要なほど高度で精緻である一方で、その内容の前提となるような基本部分が問われていないので、高校の教育内容は、クイズかパズルのようになってしまっている。何のために役の立つのか(ウルトラクイズ?)、なぜそのようなことになるのか、が抜けてしまっているのだ。そういう、日常的感覚では何の役に立つのか分からないことを、大学でやればよいのだと思う。」

http://jibun.atmarkit.co.jp/lskill01/rensai/pwhyf15/pwhyf01.html より Orz~
「ドイツ初代宰相のビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と語ったそうだが、愚者は自分で失敗して初めて失敗の原因に気付き、その後同じ失敗を繰り返さないようになるが、賢者は過去の他人の失敗から学び同じ失敗をしないようにする。・・・」

失敗の連続が歴史だって言ってるようなものですが、、、それはしかたない、、、なにせ、、、みんな愚者に過ぎないんだから...^^; Orz...だから、、、リスクマネージメント・セーフティマネージメントの存在意義があるわけで...それでも、、、歴史は繰り返されてるところをみると、、、「To err is Human, to forgive divine!(過ちは人の常、許したもうは神の業)」っていうしかないわね...^^;
支離滅裂な記事になってしまった...Orz...

画像:孟子
http://ja.wikipedia.org/wiki/孟子 より
「儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。・・・孟子は鄒(現在の山東省鄒城市)の人で、その母が孟子を育てた時の話が有名である。最初は墓地の近くに住んでいたが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移した。移った所は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移した。次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。この話は孟母三遷として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出される。・・・「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。その後荀子は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって多くの儒者に受け継がれた・・・」

画像:ビスマルク
inoshi.at.webry.info/ 200702/article_6.html より Orz~

「青年にすすめたいことは、ただ三語につきる。すなわち
働け、もっと働け、あくまで働け。

オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク
【Otto Eduard Leopold von Bismarck】(1815年4月1日~1898年7月30日)
プロイセン王ヴィルヘルム1世の右腕として鉄血政策を打ち出し、普墺戦争や普仏戦争に勝利し、1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に持ち上げ、ドイツ統一の立役者となる。
君主主義の保守的な政治家で1880年代に台頭し始めた社会主義運動に対して厳しい姿勢を取った一方で、老齢年金、健康保険、労災保険などの各種の社会保障制度を整えたことでも知られる。
伊藤博文が尊敬する政治家の一人でもあった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

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